■新宿:交易で賑わった甲州街道の初宿
江戸四宿のひとつ、内藤新宿は元禄十一年(一六九八)年に開かれた宿駅だ。それまで日本橋と甲府を結ぶ甲州街道の最初の宿駅は高井戸に設けられていたが、距離が遠く行き交う人々は難儀していた。そこで浅草の名主喜平兵衛らの願い出により、現在の新宿御苑付近に新たに甲州街道の初宿が置かれた経緯を持つ。一帯は信州高遠藩主内藤氏の屋敷地であり、新しい宿場の意味を兼ねて内藤新宿と称した。やがて街道の両側には、多くの遊郭を兼ねた旅籠屋や茶屋が軒先を並べるようになったという。ところが、享保三年(一七一八)になると、幕府は内藤新宿の廃駅を決めている。 「旅人もすくなく、新宿之儀に候間、向後古来之通宿場相止」(御触書寛保集成) との理由による。しかし、実のところは飯盛女が増え風紀が乱れたことや、旗本内藤新五左衛門の弟大八が、内藤新宿の茶屋の下男に女のことで殴打された事件が生じ、立腹した新五左衛門が切腹させた弟の首を持参し、自らの知行を差し出すかわりに内藤新宿の廃駅を願い出たためともいわれている。あるいは、幕府の享保の改革の一環であったとの説もある。廃駅に伴い、旅籠屋の多くは一時は転業を余儀なくされたのだった。
その後、新宿界隈は江戸の発展に伴い、甲州、青梅街道を往来する人馬も増加の一途をたどった。そこで宿駅再開の動きも盛んになり、明和九年(一七七二)、内藤新宿復活の運びとなった。再興には冥加金の上納が条件でもあり、幕府の宿場繁栄策や財政政策も大きく関わっていたようだ。
再開後は、岡場所としての復活も著しかった。新開地であるため、江戸の各所より遊女が集まった。やがて旅籠屋には飯盛女を置くことも認められ、その数は一応は千住、板橋なみの百五十人となっているものの、実際には五百人近くになっていたようだ。 一方、内藤新宿では、西郊の農村地帯と江戸とを結ぶものであったため、再開まもない頃には野菜を扱う問屋が既に存在しており、米穀問屋も栄えるようになった。つまり、交易の地としての役割をなしていたことになる。肥桶を付けた百姓馬が頻繁に往来していたため、馬糞の地と蔑称されたこともあるという。
主な運搬物資は、米穀物を筆頭に農村から江戸へは蔬菜が、江戸から農村へは下肥が中心であった。四谷と内藤新宿を境にする地点には江戸城下町の入口を意味する四谷大木戸が元和二年(一六一六)より設置されており、木戸脇には馬改番屋が置かれ、大木戸が廃止される寛政四年(一七九二)まで江戸へ運ばれる物資や人馬を監視する役目を担っていた。内藤新宿を経由する甲州街道は、江戸の五街道の中でも最も利用者が少なかったといわれ、内藤新宿も街道を一歩離れれば薮や雑木林が広がる武蔵野の原野であったが、産業道路としては重要な街道であり、多くの物資が江戸に供給されたのだった。