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日本橋:江戸開府とともに架けられ魚河岸も繁栄2024-10-17

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昔やれたことは今でもできる 逆に昔やれなかったことが今できたりする
負けてばかりさ それでも負けるんじゃねえ

江戸の歴史

Text:澁谷直道

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■日本橋:江戸開府とともに架けられ魚河岸も繁栄

東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道、これら五街道の起点となるのが日本橋だ。現在も橋の北詰めに「日本国道路元標」が設けられ、一級国道の起点となっている。徳川家康が江戸に幕府を開くことを決定した慶長八年(一六〇三)には、低温地の埋め立てが行われた日本橋界隈の地形もほぼ完成し、人工の掘割(運河)の上に粗末な橋が架けられた。その橋をいつしか日本橋、掘割を日本橋川と呼ぶようになった。家康が日本中の大名に命じて橋を架けさせたため日本橋と名付けられたとの説もあるが、実際のところ命名に定説はないようだ。

橋の長さは三十七間四尺五寸、幅は四間二尺五寸、以後橋は十九回に渡って架け替えられ、今のルネサンス様式を模した石橋になったのは明治四十四年(一九一一)のことだった。長さ四十九メートル、幅二十七メートル、総工費五十一万二千円、なお「にほんばし」という橋の標示は、徳川幕府最後の将軍、第十五代将軍徳川慶喜の筆によるものだ。五街道が整備されると日本橋は江戸の出口であると同時に入口ともなり、やがては高礼場(幕府の決まりごとなどを広く人々に知らせる高礼が掲げられる場所)も立てられるほどの賑わい見せ、商業や文化発展においても重要な舞台となった。  橋を南から北へ渡りきった右側に、日本橋魚河岸跡の碑が立っている。江戸時代初期より関東大震災が起きるまで魚市場として栄えていたところだ。家康から佃島への移住を許され、江戸近辺河海の漁業に従事する許可を得た摂津国の佃と大和田の両村の漁民が、幕府に納めた漁獲物の残りをここで庶民に売ったのが始まりだといわれている。

日本橋の本小田原町に開かれた魚市場は、江戸の発展に伴い規模も拡張され、房総や相模の浦々から鮮魚を積んだ船が出入りするようになった。魚市は毎日立ち、河岸が休みとなるのは正月の元旦だけであった。また、魚の他にも野菜や薪など、あらゆる日常品が船で運搬され、商いが行われるようになり、日本橋はまさに江戸経済の中心を担うべく地域として変貌を遂げていった。近江商人や伊勢商人などの大店が軒を連ね、呉服、木綿、薬種などの問屋が集まり、明暦の大火(一六五七年)以前は遊里吉原があり、天保の改革(一八四一年着手)までは芝居小屋の市村座、中村座があった。そのため「朝昼晩、三千両の落ち所」、そんな言葉も流行したほどだ。朝の魚市、昼の芝居町、夜の吉原にて各一千両の取引があったことを示している。明治十一年(一八七八)には東京市の十五区の一つとして日本橋区が成立し、従来は橋の周辺にのみ限られていた日本橋の地名が拡大して使用されるようになった。

だが、日本橋魚市場に限っていえば、その繁栄が続いたのは関東大震災(一九二三)までだった。焼失を余儀なくされた魚市場はその後、築地へと場所を移している。