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参勤交代緩和によって空家となった大名屋敷を使って生まれた官庁街 2018-04-13

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江戸の歴史

Text:澁谷直道

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霞ヶ関:参勤交代緩和によって空家となった大名屋敷を使って生まれた官庁街

江戸市中には大名屋敷が多く、明治維新当時の調査によると、江戸市中のおよそ六割が武士の屋敷で占められていたという。幕末の大名は三百諸侯、実数でも二百六十家あまりの大名がそれぞれ本邸である上屋敷の他に中屋敷、下屋敷を持っていたためである。  が、文久二年(一八六二)、参勤交代制が改編され「江戸に住居させていた妻子は国許に引き取っても構わない」と緩和されると、多くの大名屋敷はわずかな留守居を残すのみとなった。諸藩においても江戸の屋敷維持の費用が膨大であったため、妻子の国許居住は歓迎されるべく政策であったのだ。その結果、多数の武家奉公人が職を失い、江戸における武家方の人口は激減した。

さて、明治になって新政府が新しく首都となった東京でまず最初に要したのが、役所の入る建物と高官が住む官邸宅だった。江戸城には天皇が入ったため、政府は江戸城周辺の大名屋敷の接収に努めた。大名屋敷の敷地は元々幕府から与えられたものであり、明治政府による屋敷の没収にはさしたる抵抗も見られなかった。  とりわけ霞ヶ関においては、代表的な大名屋敷が多く建ち並んでいた。現在の外務省の敷地となっている筑前福岡藩黒田屋敷は数ある大名屋敷の中でも雄大さを誇り、やはり雄大さでは黒田屋敷にけっして劣らなかった安芸広島藩浅野屋敷も没収後は兵営に再利用され、現在は総務省や国土交通省のビルの敷地となっている。他にも、近江彦根藩井伊家、長州藩毛利家、肥前佐賀藩鍋島家などの屋敷が霞ヶ関周辺にひしめいていた。これらの大名屋敷が明治新政府の官庁用地や陸軍用地にあてがわれ、霞ヶ関を中心に東京が日本の新首都として発展を遂げたのであった。  

霞ヶ関にて、明治時代初期、桑茶政策が施された時期があった。明治元年(一八六八)、肥前出身の大木喬任が二代目東京府知事に就任した。大木は荒れ果てた武家地を民間に払い下げもしくは貸し付けることにより、桑畑や茶畑の開墾をさせようと企てた。この政策により、霞ヶ関一帯において桑畑や茶畑が出現したのだ。また武家地が酪農に転用されたこともあり、神田、牛込、麹町あたりで牛が飼われていたこともある。が、明治四年、大木の府知事辞任に伴い桑茶政策は実質的に廃止され、酪農も明治末には衛生問題を理由にほとんどなくなった。

国土交通省と外務省の間の坂を下ったところに「霞ヶ関坂」の標柱があり、「景勝の地として古歌にも歌われたものが多く、霞ヶ関の名の起こりとなっている」と記されている。霞ヶ関の語源には諸説があるが、そのひとつに、霞ヶ関は元々霞関山と呼ばれ、いつしかそれが霞山と呼ばれるようになり、さらにそこに関所が設けられ「霞ヶ関」と名付けられたとの説がある。なお、「霞ヶ関」から「霞が関」へと町名が変更されたのは、昭和四二年(一九六七)のことである。